
毎朝の通勤電車は、私にとって秘密の儀式の場だった。
マスクを着けた瞬間、普段の自分はどこかへ消えて、別の誰かが現れる。 臆病で、口数の少ない、目立たない殻を脱ぎ捨てて、誰も知らない大胆な自分が顔を出す。
特に、きれいな女性、かわいい女の子とすれ違うとき。 視線が合えば、私はマスクの内側でそっと唇をすぼめる。 誰にも見えない、誰にも触れられない、ただ自分だけのキスを彼女に贈る。 それは触れられない距離を、唇の形で埋める、甘い呪文だった。
その中でも、特に心を掴んで離さない子がいた。 いつも同じ時間、同じホームで、制服のスカートを軽く揺らしながら歩いてくる女子高生。 長い黒髪をポニーテールにしていて、目が少しつり目気味で、どこか生意気そうな雰囲気。 彼女とすれ違うたび、私は決まってマスクの下でキスを送っていた。 彼女はもちろん気づかない。気づくはずがない。 それがまた、たまらなく良かった。
ある朝、いつものように混み合う電車に乗り込んだ。 珍しく座席が空いていて、私はラッキーだと思いながら腰を下ろした。 そして、正面の席に彼女が座っていた。
心臓が跳ねた。 こんなに近くで、向かい合って見つめ合うなんて初めてだった。すれ違うだけの逢瀬だったのに、今日はどれだけの時間なのか、彼女を見つめていることができる。
彼女はスマホを見ていて、私の存在には気づいていないようだった。 私はマスクの下で、いつも通り唇をすぼめた。 でも今日は、いつもより強く、熱く、ドキドキが止まらなかった。
キスだけでは足りず、正面に座る彼女の、スカートから伸びる太ももを舐めたい思いから、舌でペロッとしたりもした。

興奮が頭を突き抜けた瞬間。 公共の場だということも、誰かに見られるかもしれないということも、全部忘れてしまった。
さらに大胆になろうと、私はゆっくりとマスクを外し、そして、彼女の方をまっすぐ見て、軽く唇をすぼめてみせた。
彼女が顔を上げた。 一瞬、目が合った。 私は凍りついた。 嫌がられる。睨まれる。立ち上がって逃げられる。 最悪の場合、声を上げられるかもしれない。
でも彼女は、動かなかった。
ただ、じっと私を見ていた。 そして、ゆっくりと視線を落とした。 うつむいたまま、数秒。 長い沈黙のあと、彼女は静かにマスクの耳かけを外した。
そして—— 彼女もまた、唇をすぼめた。 私に向かって。 小さく、はにかむように、でも確かに。
世界が一瞬止まった。
私は息を詰まらせて立ち上がり、 次の駅でドアが開くと同時に飛び出した。 ホームを走り、駅のトイレに駆け込んで個室に閉じこもった。
心臓がうるさすぎて、耳がキーンと鳴っていた。 手が震えていた。 スマホに映った自分の顔は真っ赤で、目が泳いでいて、 まるで自分が他人みたいだった。
しばらくして、深呼吸を繰り返して個室から出た。 洗面台で顔を洗おうと手を伸ばした瞬間、 入口の自動ドアが開いて、彼女が入ってきた。

彼女は私を見て、ほんの少しだけ目を細めた。 驚いた様子はなく、むしろどこか安心したような、柔らかい表情だった。
私たちは、言葉もなく、ただ見つめ合った。 数秒の静寂のあと、 彼女が一歩近づいてきた。

「おはようございます」
「おはよう。突然ごめんなさいね」
「いえ、私のほうこそ」
そして、そっと。 私たちは抱き合った。
マスクも外したままで、 誰もいない朝の女子トイレで、 制服の匂いと、私のシャツの匂いが混じり合う、 短くて、温かくて、信じられないような瞬間。
ずっと、誰にも言えなかった本当の自分を、 今日、初めて誰かに触れさせてしまった。
そして、その誰かは、 私と同じようにマスクの下で、 私にキスを送っていたのかもしれない。
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